【喜】──母への贈り物クルーズ

母が70歳の誕生日を迎える年、私はずっと胸の奥にあった約束を果たそうと決めた。
「いつか海の上で、何も考えずに過ごしてみたい」──。
何気なくそう話した母の言葉を、私はずっと覚えていた。
父が亡くなってから十数年、母は働きながら家を支え、
私たち兄妹を育て上げてくれた。
ようやく子育てからも仕事からも解放された今こそ、
人生で一度くらい“ご褒美の旅”を贈りたいと思った。

プレゼントを渡した瞬間、母は驚いて声を失った。
「え? クルーズ? 海の上で寝るの?」
私が笑って「そう。7日間、何もしなくていいんだよ」と言うと、
母は少し照れたように「そんな贅沢、したことないわ」とつぶやいた。
その頬が、若いころのように紅潮していた。

出航当日、港で巨大な白い客船を見上げた母は、
目を輝かせながら「本当に乗るのね、これに」と笑った。
出港の汽笛が鳴ると、母は手すりを握りしめて、
ゆっくりと遠ざかる陸を見つめていた。
潮風が頬を撫で、髪を揺らす。
その横顔を見ながら、私は胸の奥がじんと熱くなった。
「ここまで頑張ってきた母に、ようやく恩返しができた」
そう感じた瞬間だった。

クルーズは地中海をめぐる航路。
日ごとに変わる寄港地で、異国の色と匂いを体いっぱいに感じた。
バルセロナでは、母が市場のオリーブを試食して
「これが本物の味なのね」と感動していた。
ナポリでは青の洞窟にボートで入り、
海面に反射する光に息をのんだ。
「海の底が光ってるみたい…」
その言葉に私も見惚れ、
いつのまにか母の手を握っていた。

夜になると、デッキでワインを開けた。
母はグラスを手に取り、星空を見上げて微笑んだ。
「人生の中で、こんな静かな夜は初めてかもしれないね」
その言葉に、私は小さく頷いた。
潮騒と音楽、そして母の笑い声。
海の上に浮かぶその時間は、
まるで世界にふたりしかいないような静けさに包まれていた。

日が経つにつれ、母の表情が少しずつ柔らかくなっていった。
最初は「迷惑をかけちゃう」と遠慮がちだったのに、
次第に自分から寄港地の散策を提案するようになった。
「せっかくだから、教会の鐘の音を聴きに行きましょう」
その言葉がどれほど嬉しかったか、私は今でも覚えている。

最終日の夜、船内のラウンジでピアノが流れていた。
母はグラスを両手で包みながら、
「あなたが小さい頃、よく“海の向こうには何があるの?”って聞いてきたね」
と懐かしそうに言った。
「今ならわかる気がする。海の向こうにはね、“まだ知らない幸せ”があるのよ」
私はその瞬間、胸の奥が熱くなり、涙をこらえるのに必死だった。

翌朝、下船の支度をしていると、母が小さなノートを差し出した。
「毎晩、ちょっとずつ書いてたの」
開くと、そこには寄港地の名前と短いメモが並んでいた。
“ナポリ:海が歌っていた”“ギリシャ:空が透き通ってた”
最後のページにはこう書かれていた。
“この旅は、私の人生の中で一番心が動いた時間でした”

船を降りる直前、母は静かに私の手を握りしめた。
「ありがとう。やっと心が休めた気がする」
港の風が吹き抜け、白い帽子が揺れた。
私はその手を握り返しながら、
「次は私が連れてもらう番だね」と笑った。

海の上で見たあの星空の輝きは、
母の人生を祝福する光のように、
今も私の記憶の中で静かに瞬き続けている。

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